美しい響きの日本語を取り戻すべき時代にきた

日本語の持つ美しい響き、徳の高い民族だった頃の日本語を取り戻すべき時代にきたのです。
今ほど言葉の大切さを大きく問われる時代はありません。

今、正しい日本語とその背景にある日本の伝統文化と、受け継ぐべき美徳を、多感な子供のうちに伝えてゆく必要に迫られています。あと10年待っていては遅い。遅いのです。2010年前後までが分水嶺です。
なだれを打つように崩れてゆく様を見て、大変だ大変だと、それから手を打っても遅いのです。

やるべきことはたくさんある。
しかし、コトバという道具で人が人と関わっている、この一点に集約すれば、コミュニケーションの乱れは、元を正せば、自分を知らないことから来ること、と言いきっていい。


 自分の価値が認められないから、人の価値も認められない。
 自分の尊厳を見失っているから、ちょっとしたことですぐぶれてしまう。
 自分のしたいことが見つからず焦るから、夢を持つ人の足を引っ張る言動に出る。
 自分の生まれてきた意味を見失っているから、無気力になる。
 自分のやるべきことをやっていないから、人のせい社会のせいに責任転嫁する。

こうした状態は誰にでも起こりうるが、そこが社会現象と言っていいほど、「本当の自分を探したくても、一向に見つからない」という閉塞感が蔓延していると言える。ならば、どうするか、どう自分を再発見し、問題を解決してゆくか。手段も方法も無数にある。だから自分探しが産業化しているのだ。

しかし、よくよく考えてみたら、最初に出会うコトバが自分の名である。

誕生して直ぐに出会うコトバ、あるいは生まれる前から決まっている場合は、体内にいる頃から呼ばれ続けた名前。その名前の意味を知り、生きる糧とするならば、どれだけ人生を前向きに歩めるか、どれだけ困難に出逢っても、負けずに理性をもって立ち向かえるか。知ると知らぬとでは、大きな差である。

自分の名を好きか嫌いかで、どれほど成長に差がつくか、真剣に考えるべきときが来たのです。
なぜなら真の意味を知らないと、多くはマイナス面が出てしまうから。
「ゆみ」の付く子は、お湯・温泉のような安らぎをもたらすはずなのに、弓矢のように人を傷つける。
「す」の付く子は、助太刀することが役目なのに、目立ちすぎると、人とぶつかってしまう。と言う具合に。