言葉の乱れは、心の乱れ。

今、子供たちの世界に荒れた心、閉じた心、揺れる心そして切れる心が問題となっています。日本の教育から徳育が消え、野放し状態となっている。
大人の世界はまさに癒しの時代。しかし私たちは癒されたくてこの世に生まれてきたのでしょうか。癒された自分が何かを創造するために人生はあるべきです。それが右を向いても左を向いても自分探しに忙しい人が大勢いる。探すことが目的化し、出口に出ないことで安住した空気もある。
癒しから創造の時代へ、いつになったら私たちは出口(新時代)に出られるというのだろうか。迷いながらも凛として、信念を持って子育てをせずして、どうして子供たちの心が育つでしょう。

 自分の気持ちを伝えるコトバを持たない子供たち。
 人の気持ち(コトバ)を受け取る心の器が乏しい子たち。
 親や先生の意見でしか自分の行動を決められない子供たち。
 人の話を黙って、直立して聞けない子供たち。

皆がみんなそうではないが、自立心が育っていない幼稚な子が年々多くなってきたとの危機迫った認識は、小学校の先生が口々に言っている事実です。
ある小学校の校長先生が言うには、「このままいくと日本はダメになる」「親たちが素敵な大人になって見本を示してくれなければ・・」と訴えます。

 

子供が学校のガラスを割った後にその母親が何と言ったか。謝る代わりに、ガラスを全部ベニア板に変えたらどうですか?と。それを聞いた校長先生は、唖然とし、恐ろしくなったと言う。発表会では、自分の子供の番が終ったらざわざわとし始め、マイクで注意される始末。学校新聞では発表会の日、車がきちんと並んでいてとても素晴らしかったです、と褒められていた。嬉しいですかね、逆に恥ずかしいと思わないのでしょうか。「当たり前のことを褒めないで」と。

運動会では、はだしだと危ないので、靴を履かせて下さい、と迫る親たち。それをきっぱり断る校長先生。しかし断りきれず全校靴にした学校も多いとか。「それが現実なんですよ・・」とため息をつく姿が、押し潰されそうな悲壮感を漂わせていた。
何かがおかしい、何かが違う、このまま日本が自由主義と言う名の利己主義・自己中心主義に陥ったら、日本は本当にダメになる、と現場の教育を預かる心ある校長の目には、遠くの日本の姿が写っていた。

「昔の日本に戻さないと・・」と。

では、どこまで戻るべきか、と問えば「論語の時代に」と即答された。日本語の持つ美しい響き、徳の高い民族だった頃の日本語を取り戻すべき時代にきた、と言うわけです。
今ほど言葉の大切さを大きく問われる時代はありません。